神谷美恵子小論

 神谷美恵子の名前を知ったのは、社会福祉学部の大学1年生の時である。一般教養のゼミナールを担当していた教官は心理学が専門だったが、ゼミの教材として「こころの旅」を選んでくれたのがきっかけだった。それから、当時みすず書房から出されていた「神谷美恵子著作集」全巻を少しづつ買い込んでは読むようになった。「生きがいについて」や「人間を見つめて」は、いまでも私の愛読書のひとつである。
 その頃、物事はすべて偶然の積み重なりの上に成り立つものであるという、ひどくペシミスティックな世界観、歴史観を抱いていた私は、ハンセン病患者を前にした「なぜ私ではなくあなた方が。あなた方は代わってくださったのだ」という神谷美恵子の言葉に、どこかそこはかとない悲しみを秘めた共感を覚えたものだった。
 その後、雑事にまぎれて、いつしか著作集の頁を繰るのも疎遠になっていたが、つい先頃、思うところがあって意を決し、著作集全巻を読み通すことができた。
 神谷美恵子の名は、真摯な使命感と優しさを以って、病む者に光と希望を与え続けた精神科医として、医療や福祉に携わる者の間で知らぬ人はない。私もまた、素直で衒いのない文章のなかに深い真実を表現する、物書きとしての彼女の知性と感性、そして何よりその生き方に、常に変わらない尊敬を覚えてきた。
 ところで、彼女の著作集をすべて読んでみて分かったことだが、神谷美恵子には常に何がしかの誤解がついてまわってきたようなこところがある。否、それは単に私ひとりだけの誤解であったかも知れないのだが、ひとつは、彼女が上流家庭出身の令嬢で、生涯、生活面や経済的な逼迫には無縁であったと思われていることだ。むろん、その出自からすれば相応の家柄といえば言えなくもないが、空襲で家を失い路頭に迷ったり、子息が結核に罹ったとき、ストマイを購うために血のにじむような苦渋の努力を経験したことなど、自伝『遍歴』を読むまでは何故か想像すら出来ないことだった。
 もうひとつは、神谷美恵子の宗教観である。一般的に、彼女はキリスト教を背景に持った著作家であると紹介される。確かに、幼少時から欧米滞在が長く、クェーカーの学校に学び、長じても無教会キリスト教と関わりのあった生活において、キリスト教が深い影響を持ったことは事実だろう。だが、著作集のなかに書かれた文章、たとえば次のような言葉を読んでみると、決して彼女を単純な意味でのキリスト教徒とは言い得ないのではないかという気がしてくる。
 いわく「形式よりも生命が大切なこと、現世に生きていることの重要性、日々の卑近ないとなみの中に永遠的なものを生かして行く責任」
 「私がキリスト者になれない理由は、イエスが三〇歳の若さで自ら死におもむいたためだ。三〇歳といえば心身共に絶頂の時。その時思う理想と、六五歳にして経験する病と老いに何年もくらすことは、何という違いがあることだろう!私はまだしもブッダのほうに、人生の栄華もその空しさも経験し老境にまで至って考えたことのほうに惹かれる」
 「ただ要は自分で神を独占しているような気になって思いあがらないことだ」云々。
 むしろそこには、人間の有限さを超えた広大な価値のうちに謙虚になり、かけがえのない人間性を見つめていくという、汎宗教性とも呼び得る心の姿勢がうかがえる。あるいは、神谷美恵子のなかにあったのは、特定の宗教に対する信仰心というよりは、信仰というものに対する強い憧れの気持ちではなかっただろうか。病み崩れていくハンセン病患者が賛美歌を歌い神を讃え、生きることの希望を語るその姿を通して、彼らをして病者の絶望に呻吟させるのではなく、生の喜びを語らしめる、その信仰する心というものに向けられた尊敬であり、信仰というものに対する信頼である。
 三つめは、芸術家としての資質と科学者への志向という、自己の抱える矛盾した多面性と向き合い、いわば動的な実存的亀裂を生きた人でもあったということである。確かに、ハンセン病を病む人々について描写する優しい眼差しと、長島愛生園で遺体解剖に立ち会ったときの様子を書いた、怜悧で即物的な文章の間には、なにがしか非連続の印象が拭えないのは事実だ。神谷美恵子というと、どこか静かで調和のとれた、統一感のある人という印象が先行していたのだが、その内面は葛藤と相克の連続であったことが、自伝『遍歴』からは窺える。
 そうして思えば、こうした生活の苦労、宗教観の深さあるいは信仰への尊敬、内に秘めた実存的な激しさから、あの血の通った文章と、共感をよぶ生き方が生まれたということにも、深く頷けるものがあるというべきだろう。
 ところでもうひとつ、現代にあって神谷美恵子について語るとき、避けて通ることのできない問題がある。それは彼女が医学上の師と仰いだ、光田健輔との関係に起因するところの評価である。光田健輔は、ハンセン病学の草分け的存在として多くの功績を残す一方、「らい予防法」をはじめとした日本におけるハンセン病患者強制隔離政策を推進した者として、後世の批判を招いてきた。その光田健輔に無批判に追随したというかどで、神谷美恵子もまた、結果としてハンセン病患者の隔離政策の一端を担ったという批判にさらされているのである。
 こうした否定的評価に関して、彼女は、自分自身のことについは何も語っていないが、光田健輔については、次のように書いた。
 「いったい、人間のだれが、時代的・社会的背景からくる制約を免れうるだろうか。何をするにあたっても、それははじめから覚悟しておくべきなのであろう。私はむしろ、歴史的制約のなかであれだけの仕事をされ、あれだけのすぐれた弟子たちを育てた光田先生という巨大な存在におどろく」
 おそらく、神谷美恵子は、光田健輔だけではない、自分もまた、同じように批判され、断罪されていくのだろうということを、知っていたのではなかっただろうか。彼女の明敏な知性と旺盛な想像力が、そのことに気がつかぬはずはないのだ。自身について語るということは、言い訳をすることになる。人間という存在の限定性、不完全性、その小ささと悲しさを知っていた神谷美恵子だからこそ、言い訳を考えるのではなく、自身のあり様を全うしようとしたのだと思う。
 先ほどの文章も、それは師である光田健輔を擁護するという以上に、誰もがやがては同じように歴史の流れの中で否定されゆく存在であること、そうした人間の宿命を見つめ、それゆえにこそ、今を精一杯生き切ることの大切さを説こうとしたものであるように私には思える。
 私は、若い頃、物事の全てが偶然の上に成り立っていると考えていた、と書いたけれども、今は、人は誰も後から来る者によって乗り越えられていくというのは、これはひとつの必然なのであろうと考える。しかし、批判する者もされるものも、それが神谷美恵子のいう「永遠の眼差し」のなかに捉えられるなら、そうした対立をこえて、常に真摯に生きることの大事を私たちに教えてくれるものであるだろう。



    トップページ  物語と小説  レビューとエッセイ